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紙と和紙の歴史-文化と生活を支えた、紙と和紙の歴史
紙は文字を書き記すばかりでなく、紙によって作られる工芸品の発達など、人類の文化と切り離して考えることはできません。ここでは、古代の紙のはじまりから、現代の和紙にいたるまで説明します。
  古代 パピルス、シルクロード、聖徳太子。歴史が産み、育てた紙
パピルス
紙の起源は、5,000年前の古代エジプトの「パピルス」であると言われています。
しかし、パピルスはその茎を圧着・組み合わせ紙状にしたもので、現代の植物繊維を叩いて作った紙とは、質感も製法も全く異なるものでした。

現在の紙の原形となったものは、紀元前2世紀ごろ、中国の漢の時代に発明されたものと考えられています。中国で発明された紙づくりの技術は、シルクロードによる交易を通じて広がっていきました。

日本での紙の基礎を作ったのは、聖徳太子でした。聖徳太子が摂政のころの610年、朝鮮から製紙の方法が渡ってきました。
これが日本における最古の記録ですが、それより100年も前に福井県の今立町では紙漉きが行われていたという説があります。
仏教を重んじた聖徳太子は、写経も推奨しました。写経に用いる大量の紙を確保するため、紙作りの保護育成の政策を推進しました。製紙術の改良が行われ、わが国在来の楮(こうぞ)を使った楮紙が多く作られるようになりました。中央ばかりでなく、地方でも多く作られるようになってきました。

現存する、わが国で漉かれ、年代の明らかな最古の紙は、正倉院に伝わる702年(大宝2年)の美濃、筑前、豊前の戸籍用紙です。また、正倉院に保管された奈良時代の文書には、紙名や和紙名が数多く記されており、当時でも約20の地区で紙漉きが行われていたことがわかります。なお、770年の「百万塔陀羅尼」(麻紙)は、現存するわが国最古の印刷物です。


  平安 紫式部も褒めたたえた和紙 平安時代に入ると間もなく、嵯峨(さが)天皇の大同(だいどう)年間(806~810年)に、図書寮別所として紙屋(かみや)川のほとりに宮廷用紙を漉いて研究を行う紙屋院(かみやいん)が拡充移設され、全国の製紙に向かって指導的役割を果たしました。

紙屋院の組織や作業は『延喜式(えんぎしき)』の「図書寮式」に示されており、当時の製紙のようすがうかがい知られます。その恵まれた環境で漉かれた優美な紙は、「紙屋紙(かんやがみ)」の名で貴族間に愛好され、また舶来の唐紙よりも上質とされて唐へも逆輸出されました。『源氏物語』や『枕草子』のなかには、紙屋紙をたたえることばもみられます。

しかし平安朝も末期になると、摂関政治の威信の低下と地方有力者の台頭を反映するかのように、紙屋紙や紙屋院の名声も落ち、かわって地方産のみごとな紙が都へ流入してくるようになります。その先駆けは東北地方からの「陸奥紙(みちのくがみ)」。紫式部もその優美さを紙屋紙と比肩しているもので、その紙質は大宮人(おおみやびと)の好みにあい、男性はこれを唐風に檀紙(だんし)と称し、女性は真弓紙(まゆみのかみ)ともいって、その使いざまが当時の文学作品や日記類に記されています。紙漉きは、地方の荘園(しょうえん)からの収入で豊かになった各地の産業のなかで一段と盛んになり、地方産紙は中央の紙屋紙を圧倒するほどの勢いをみせました。そして白河(しらかわ)上皇の院政が始まるころから、紙屋紙は古紙を再生した漉き返し、すなわち「宿紙(しゅくし)」を意味するまでに衰退していきました。